2005年04月30日
なんにでも目玉をつけてみよう。
「なんにでも目玉をつけてみよう」
「なんにでも目をつけてみよう」ではないので、お間違いなきよう。
実は、4年ほど前もマイブーム(なんて言い方してたよねえ)だったのがリバイバル。
手芸屋さんで目玉各種各サイズを買ってきて、瞬間接着剤(ダイソーで100エン)とともに持ち歩き、目玉をつけられたがっていそうなものに、ためらわずつけるのだ。
反応は、「カワイイ」33%、「やめてよ」33%、「!?」34%といったところか。
ちなみに、ぴったりはまるのが「ジャー」とか「ソース注し」など、口のあるもの。
注)携帯にぶらさがっているのは、ねずみ男(昨年の、いや一昨年かな、サークルKの飲み物のオマケ)とスタンキー(QRコードで個人携帯サイトにジャンプ)。
2005年04月29日
グラウンドゴルフ
2005年04月28日
「コミボ」ヒヤリング

昨日と今朝は、金融関係の経営サポートスタッフの方々に。思わぬアイデアが出てブレーンストーミング効果があった。
11時〜13時は、商工会議所工業部会幹事会。立派なで美味しいお弁当がでたが、私には、少し多くて、少し辛い。
15時〜16時は、愛知教育大学森崎教室(養護教育)の授業に、当社営業、NPO「電気仕掛けの仕事人」の脇さん、私の三人で出席。「コミボ」のヒヤリング。
その帰り、刈谷ハイウェイオアシスによって「足湯」(100円)に入って来た。
夜は、岡崎城南○ー○○ークラブ「次年度理事役員懇親会」。二次会のカラオケ、三次会と重ねたが、その日のうちには帰宅できた。この会のトピックは、なぜかリクエストでトップで歌うことになった「黒田武士」。それと加藤○生君の締めの一曲をサポートしたまるでキーの合わない「テネシーワルツ」。
飲みすぎた。明日の朝が怖い。
2005年04月27日
郵政民営化

中で、ロバート・フェルドマンが語っていた。「ゲーム理論で分析すると、小泉首相は主張を明確にするという戦略をとることがよく、抵抗勢力側も最終的に妥協するのが最良の選択」と。
あと数日で方向が決まりそうな今日、ここに書いとこ。
それにしても、年金問題を強行採決した数を誇る方々が、今回党執行部の強行「一任取付」にお怒りになっておられる。
楽しく拝見させていただいている。
注・念のため
1:「決戦・郵政民営化」は推薦図書というわけではありません。
2:猪瀬直樹氏を支持しているというわけではありません。
3:ロバート・フェルドマン氏の顔は好きです。
ブラジル

「日本語」「時間差・時差」「知的レベル」をキーに印刷ビジネス(とあいまいに表現)ができないか、ということで渡伯(って言葉ある?)。
昨年同時期に、○上社長と私とわが社のO君(まんま)の3人で、大連>北京>瀋陽に行った。3人のオリジナル視察旅行で面白かった。
当時の私は2年目のマスク(ユニ・チャーム製超立体マスク)、サーズのおさまった北京をマスク姿でうろうろしたのだが、反応もなければウケもせず、さみしかった。
このマスク、し始めた当時は「なんだ、それ」とか「からす天狗」とか、奇異の目で見られたが、今シーズンはなんとこのマスクの多いことか。印象だがシェア70%行ってんじゃないか、と思うほど。
やっと時代が私に追いついて、追い抜いて行くんだなあ。。。
2005年04月26日
ものづくり委員会
7名の社長さんの会だが、私は「紙を使いたがらない変な印刷屋」ということでお声を掛けていただいた。
この会を始め、商工会議所の会合には参加の機会が非常に多い。
近い(会社から3分)ということが私には大きな要素だが、商工会議所のエレベータは随分とゆっくりで、着いてから会議場までが長く3分以上かかったりして、ネタになる。
で、本当の理由はいろいろな社長さん(の昼の顔)に会えることで、これも社長である私の優先順位の高い仕事である。
2005年04月25日
部課長会議に出ました。
2005年04月24日
2005年04月22日
1980年01月01日
1955年10月、株式会社ブラザー孔版社は名古屋営業所を開設した。
テスト記事です。
Time Machine:ブラザー印刷
(この記事は、2020年5月15日に書いたものである。)
1955年10月、株式会社ブラザー孔版社は名古屋営業所を開設した。
場所は、名古屋市東区駿河町(テレビ塔下)、1951年2月の創業メンバーの一人、佐原言(賢治)所長ひとりからのスタートである。顧客開拓も従業員確保もひとりから始める。
1957年2月には、名古屋市昭和区紅梅町へ移転。
1957年6月には、本社より2名を異動、拡充を計っている。
翌々年の1959年4月には、営業だけでなく印刷作業も開始した。
名古屋営業所は設立間もないブラザー印刷(ブラザー孔版社)の発展に大いに寄与した。
名古屋という大きな市場に切り込み、苦労も多いが実りも多かった。
1967年3月、名古屋市瑞穂区駒場町への移転も、ブラザー印刷の事業拡張に伴うものだった。
その後、1996年11月、名古屋市天白区植田に移転、営業部門のみとする。
そして、2015年の事業再編に伴い、その年9月20日に閉鎖をした。開設からちょうど60年、ブラザー印刷での役割を終えたのである。
Time Machine:ブラザー印刷
(この記事は、2020年5月15日に書いたものである。)
1955年10月、株式会社ブラザー孔版社は名古屋営業所を開設した。
場所は、名古屋市東区駿河町(テレビ塔下)、1951年2月の創業メンバーの一人、佐原言(賢治)所長ひとりからのスタートである。顧客開拓も従業員確保もひとりから始める。
1957年2月には、名古屋市昭和区紅梅町へ移転。
1957年6月には、本社より2名を異動、拡充を計っている。
翌々年の1959年4月には、営業だけでなく印刷作業も開始した。
名古屋営業所は設立間もないブラザー印刷(ブラザー孔版社)の発展に大いに寄与した。
名古屋という大きな市場に切り込み、苦労も多いが実りも多かった。
1967年3月、名古屋市瑞穂区駒場町への移転も、ブラザー印刷の事業拡張に伴うものだった。
その後、1996年11月、名古屋市天白区植田に移転、営業部門のみとする。
そして、2015年の事業再編に伴い、その年9月20日に閉鎖をした。開設からちょうど60年、ブラザー印刷での役割を終えたのである。
Posted by brother_p at
09:49
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