2008年02月13日

愛環塾結成20周年の夕げ

0212あいかん2月12日、○藤清春くんの声かけで「愛環塾結成20周年の夕げ」が持たれた。

いわゆるあいかん3人の○藤清春くん、○野雲宝くん、そして塾長(だった)私。
名古屋駅前新名所のミッドランド・スクエア・ビルの41階の「今半」でゼイタクな食事をいただいた。

○宝くんが持って来たのが、1993年12月34日(!)発行の、「あ、いかん通信37号」。
表紙左上の37号のキャッチに、
「子供に感謝を要求する父親は、最低の父親である」
絶好調だ。
右上にゃ「食べ過ぎは食べ足りないより悪い」
今からご馳走を食べるというのに。

私が編集し、6年間続けたこの通信も、この次号1994年5月10日付の38号で廃刊となる。
(たしか、廃刊通信ってのも出した)
その後しばらくして、愛環塾も形を変えるという名の終焉を迎えた。
1988年3月2日の設立から20年、そのお祝い?の宴。

なぜ○宝くんが37号を持って来たか?
それは「20年前にこんなことを書いてたんだねえ」と絶賛?の巻頭言、「霊性満足の生活に悩みなし」がそこに書かれていたからだ。

書いたのは、好蔵不礼人。
私のペンネームのひとつ、スキゾフレーニアだっけ、精神分裂病のもじりだ。
今じゃ、統合失調症というらしいが。

今のスピチュアリズムブームに対してどうのこうの言う気はないが、20年前の(38歳のころ)の文章として紹介しよう。
(長文につき、読まんでええよ)


(あ、いかん通信37号・1993年12月34日発行・巻頭言)--------------------

『霊性満足の生活に悩みなし』  好蔵不礼人

と、こう書くと、お、と身構える人が居るかも知れませんね。オカルトではないので、安心して下さい。
要するに「人間本質を充たす生活」ということで、そんな生活、そんな日々を過ごすのがいいよ、と言いたいのです。人間本質とは肉体でもなければ精神でもない、いわば総体としての人間、実体としての人間をさしています。
霊性満足の生活、それにはまず自分を傷つけないこと、痛めつけないことだと思います。恨み、羨み、妬み、自己嫌悪と言ったことは人間本質を痛めるもとです。弱い自分も、足らない自分もまずそれを認め受け入れることが大切です。自分を受け入れられれば、他人も受け入れられて、他人に対する怒りの感情も生じてこないでしょう。怒ることは良くないです。でも怒りの感情が湧いたときにそれを抑えることは、怒ることの次によくないです。抑えるよりも怒りの感情が起きない心の状態を作ることです。
あまり自分に枷をはめたり、課題を与えるのも考えものです。がんばったらダメだよーというやつです。目標を定めて日々努力する、そして目標を達成したときに日々の苦労が報われる、目標が「戦略」で日々の努力が「戦術」、目標達成が「実り」で日々の努力が「犠牲」ですか。ちょっと待って下さいよ。例えば「月に行く」という目標を立てたとします。「百億企業」「上場企業」という目標でもでもいいです。その目標達成のために日々が生き生きとする、それが本当です。ここで戦略と戦術の大逆転がおきます。実は目標と思われていた「月へ行く」ということが、「生き生きとしていて、楽しくて、心穏やかな日々」を実現するための手段・方便だったことに気づくはずです。人間はプロセスに生きています。現世でも、来世でも(行ったことないけど)。「生き生きとしていて、楽しくて、心穏やかな日々」を実現するための手段のひとつが「目標を持つ」ということになるのでしょう。
目標を立てたことによって日々が追いまくられたり、後手後手に回って焦ったり、競争に駆り立てられたりして、自分を痛めつけることのないようにしてください。
それと、言葉です。口に出したことばは、自分の耳も聞いています。心ない言葉、否定的な言葉は他に対してだけでなく、自分自身に最も悪影響を与えます。
霊性満足の生活のもうひとつは、他人を喜ばせることです。他人が喜ぶことが自分の人間本質を喜ばせ、充たします。
先日医療刑務所へ行って来ました。麻薬・覚醒剤の類とか、また精神的な病気のために罪を犯したひとが懲役の罰を受けています。養護施設と病院と刑務所を兼ねたようなところです。一度出てもまた罪を犯して戻って来る人も多いそうです。懲役と言う「痛み・苦痛」を与えれば二度とそれを味わいたくないために再び罪を犯さないだろう、というのが「罪と罰」の考え方の一つなのでしょう。
アメリカにこんな「いびきの治療器」があります。いびきをかくとその音に反応して電流が流れる、というやつです。痛みによって根本的な解決が図れるか、というとそうではないようです。
この医療刑務所の所長さんが言ってみえました。痛みとかの罰を与えても決してよくはならない。それよりも作業などを通して、どんなことをしたらひとに喜ばれるか、という体験の積み重ねのほうが根本的な解決となる、と。それはここで治療を受けるような人たちのみに言えることではなくて、われわれ、一見健常に見える者にももちろん当てはまることではないでしょうか。
幼児またはそれ以前は、人間とは言っても動物と同じだからと、躾のための体罰を肯定する人もいますが、私は賛成できません。近頃家庭でも学校でも体罰がなくなってきたのは、何もおとうさんがフヌケになったからでも、PTAのおばさんがうるさいからでもなんでもなくて、人間の進歩・進化だと思います。近頃は犬の調教でも体罰は加えないようになってきているといいます。痛みを与え続けられた犬は、ある時その飼い主を噛むと言う報復に出ることがあるとも言われています。
他人も自分自身も苦痛では決して動きません。他人も自分自身も喜ぶ事を与え続けることが大切です。ここで特に強調したいことは、もっともっと自分自身に目を向けていただきたいなということです。自分自身をしっかり見つめていただいて、自分の生命、いやもっと大きな生命の求めるところに従う、これすなわち「霊性満足の生活」ではないかな一と思います。
そこで『食べ過ぎは、食べ足りないより悪い』。

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この記事へのコメント
「生き生きとしていて、楽しくて、心穏やかな日々」を実現するための手段のひとつが「目標を持つ」ということになるのでしょう。
自分が気づかなかったこと。いま気づいた!
Posted by jun at 2008年02月13日 19:18
確かに良い内容ですネ。さすが塾長。

雲宝さんもしっかり「あ、いかん通信」は保存しているのですね。
Posted by tachi at 2008年02月14日 08:52
「あ、いかん通信」だけは捨ててないと言ってました。

あ、写真ありがとう。
Posted by 伝道塾長 at 2008年02月14日 08:57