これも高齢の、いや恒例の母と弟と私の3人でのお盆の墓参り。
「そこに私はいません」が、父の書いた「清浄観」の字に向かう。
3年前の私は、「清浄観」を「清い、汚れなき心でものを観る」ことと思っていた。
だが、「清浄観」とは「浄と不浄とを差別せずものを観る」ことのようだ。
そうか、そうだよね。
毎年の墓参り(おい! 1年に1度かい?)。
私は、自分の心のありようも観ることとなる。
去年は去年の、おととしはおととしの心。
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