2014年07月20日

岡崎空襲は、7月20日。またあの夏の日が来た。

image昭和20年7月20日、愛知県岡崎市を襲った岡崎空襲の日である。
その後、一ヶ月を待たずして、広島長崎に原爆投下とつながって行く。

その前の日19日は、菅生神社祭典の日。
平時ならば、岡崎名物の花火大会が菅生神社の前を流れる菅生川(乙川)河原で催され、川は提灯で飾った船で賑わうのだが、戦争のため中止となっていた。
(現在は、8月の第一土曜日に催される習わしとなっている。今年も8月3日に催される。岡崎市民にとっては全国に誇る国民的?行事なのだ)

弊社が出版のお手伝いをさせていただいた「岡崎空襲体験記第4集」に、この菅生神社の倉地和子さん(83)が寄稿されている。

「(前略)
 私の家は、菅生神社の神主を父がしていて社務所の南に住んでいました。
 空襲のサイレンが鳴り、敵機が来て、焼夷弾が川の中に落ち、金魚花火のようだった。
(中略)
 明け方になって菅生川の方へ行くと、土手や河原に皆んなのウメキ声が聞こえ、十人以上の人が黒こげになっていた。うつむいている人や、あおむけになっている人が見えた。
 うめいている人は、担架に乗せて、菅生神社の社務所へと運ばれて、手当を受けた。姉と私と母も手伝い、とてもとても大変でした。」(原文のまま)

「焼夷弾が川の中に落ち、金魚花火のようだった」がどうにも切ない。
普段ならば花火大会で川面を彩る金魚花火、それを焼夷弾がなぞらえている。

当時14歳の少女だった倉地さんの体験だ。
そんな地獄の体験を思い出したくない、語りたくない気持ちは当然。
でも、それを今語り継ごうとしている。
日本の世界の未来のために、子孫のために。

この記事へのトラックバックURL